こんにちは、Nanaです。

今月は母の26回目の命日です。

元旦生まれだった母は、生きていれば77歳になっています。

あきらめが悪く「生きてればなんでもできる」という
Nanaのマインドの根っこは彼女のおかげなのかもしれません。

母がガンという病に倒れた時に、父の一存で
まだ49歳だった母には告知はしないと決まりました。

私も弟も反論はなく、それに従いました。

母が51歳で旅立った時、二人とも成人はしていたものの、
まだまだ自立できてなくて
父がいなくてはとても生きてはいけない状況でした。

あれから26年。

少しは成長したでしょうか。

母は私たちを見て、安心してくれているでしょうか。

それだけが、ちょっと気になります。

26年前のその日。

私はいつも通りに、夜中からの付き添いで、暗い病室の中で
母の傍らで座って、ウトウトしたり起きたりを繰り返していました。

だいぶ疲れも溜まってきていましたが
母の苦しみを思えば、そんなこと言っていられませんでした。

夜中の付き添いをするようになって
朝までいたら、その後は病院にまかせられるので
家に帰ってシャワーを浴びて、仕事へ行きました。

こんなときに、どうして会社へいかなくちゃいけないの?
と会社員であることをこれほど恨めしく思ったことはなかったです。

でも、ずっと休むわけにもいきません。
働かないと収入が途絶えてしまうからです。

後から聞いた話だと、私の母がガンで余命数ヶ月だと
信じていたのは、直属の上司だけで
他の仲間は信用していない人がほとんどだったそうです。

私の親としては、あまりにも若すぎるので
みんな本当に余命わずかだと想像できなかったんでしょうね。

ずいぶん失礼な話ですが。

ある朝は、都内の会社へ向かう途中、
山の手線でうっかり座ってしまうと
そのまま眠りこけてしまって、
1周半くらいしているときもありました。

時計を見ると、10時半を回っていて
2時間近く遅刻したなんて時もありました。

そんな看病生活も先生から「今晩が山場です」と言われて
すでに1週間以上が経っていました。

母だって若かったですから、心臓は強かったのだろうと思います。

この世に未練だってたくさんあったでしょうから
そう簡単には死にたくなかったのだと思います。

いよいよ今日明日が山場です、と言われ夜中の付き添いから
私も仕事には行かずそのまま病院に残っていました。

母の実の弟である叔父が駆けつけるまで、母はがんばっていました。

仕事の後、病院へ夜行き、朝、窓の外に朝日が昇り
部屋が明るくなってから、病院の母を後にするという
生活も10日目くらいを迎えていました。

なす術もなく死に行く母を見ながら、
私は何も考えられないでいました。

夜中ふと母がよく目を覚まして「足をさすって」と言うので
膝から下をさすってあげることがありました。

ゾウのようにむくんでしまった足でしたから
常にだるかったのだろうと思います。

もう起き上がることさえできませんでしたから。

モルヒネでわけがわからない状態だったのか、よく

「足首を触りたいの」

と母は言いました。

その母の足下が私の所定の位置になっていました。

父、弟、叔父や叔母たちがベッドの周りにいました。

母の母である私の祖母は、私たちの家に来たものの
娘のそんな姿は観たくないと言って、
家で待っていました。

ベッドの正面であるこちら側から、酸素マスクを付けた母を見ていました。

「髪の毛は抜けなかったけれど、ずいぶん痩せちゃったね・・・」

そんなことをなんとなく考えていました。

心音のモニターが波打っているのが生きている証拠です。

そのモニターの心音の振り幅がどんどん小さくなって
ついに

「ピーーーーーーーーーーー・・・・・」

・・・・と、一直線になった時
母の口から何か、膿みのようなものが出てきました。

そのまま、看護師に呼ばれた先生がきて、脈を確認して
「1月○日午前○時○分。ご臨終です。」と一言。

モルヒネのおかげで、苦しむ事なく
眠るように母は旅立って行きました。

よくあるテレビドラマのように大声で泣いたりすることもなく、
私も父も弟も静かに頭をうなだれただけでした。

「お母さん、おつかれさま。がんばってくれてありがとう。」

そう心でつぶやいていました。

終わったね・・・と一粒涙が流れ落ちただけでしたね。

母は生まれも育ちも東京の人で、
埼玉の田舎出身の父と結婚しました。

でも、父も見栄っ張りの祖父のおかげで
東京の中高一貫の私立校に通っていたそうで

田舎者でも、細身のイケメンでしたので
母はがんばって父をゲットしたんだろうなと思ってました。

おしゃれな母は、ブランドものを身につけるというよりも
デザインや、色、形にこだわって
服に合わせて、アクセサリーもきちんと変えるし
スカーフなどの小物も使うような人でした。

割と私たちが小さいころから働いていたのは、
商売の家の娘だったこともあったし

そういった化粧品など良いモノを使いたかったから、と
いつだか話してくれました。

そんな母が、元気なときとは、全く違う自分の姿を見て、
どんなにイヤで、悲しかったたろうと思いました。

顔はシワシワで、身体全体がやせこけてしまい
80歳のおばあさんでした。

本当だったら、私や弟の結婚する姿を見たり

孫を抱いたり

そんな平凡なことを楽しみにしていた母でしたから
なんでこんな真面目な人がこんな目に遭わなくちゃ
いけなかったのか、怒りしかなく

その怒りをどこへぶつけていいのか、持て余す日々でした。

ガンという病気は、病気自体はちっとも恐ろしいものではないのに
そんな風に医療業界に祭り上げられた病気だと今の私は思っています。

母も、父も、そんな世間の情報を信じる普通の市民でしたから
それは仕方のないことでした。

当時の私はまだ子供で、そういった親の選択が
絶対正しいと思ってましたからね。

実際に、今も、ガンと言う病気は、死に至る、恐ろしい病気だと
変わらず恐れられているのが現状でしょう。

医療業界の思うつぼってわけです。

母が他界し、父が同じくガンで他界するまでの20年で
医者や病院の数は増えたのに、ガンで亡くなる人は
増加の一途をたどっているんですから。

私は、両親をガンの闘病生活ののちに看取ったことから
感じていることは、

「本当に正しい情報って自分で探して判断するしかない」

ということ。

母も父も、私に言わせると
医療業界に殺されてしまったとさえ思えます。

それは、世間が正しいとしていること
つまり、多数派の意見が正しいという風潮を
母も父も信じる真面目な人だったからです。

父は、役人や役所は好きではない人でしたが
(そこは父ゆずりの私)
国民の義務はしっかり果たす人でした。

お国に逆らえば罰せられるような歴史を歩んできている
我が祖先ですから、自然とそういう風な洗脳を受けているし
そのDNAをみんな持って生まれてきています。

私たちもです。

でも、実際には、今の時代はもっと自由に
いろいろな選択肢を選ぶことができるはずなんです。

それなのに、みんなが向いている方向を選ばないと不安という
そんな気持ちになる人がまだまだ多いです。

例えば、いい大学を出て、いい会社に雇われることが
幸せでより良い人生だって信じてる人がまだまだたくさんいます。

みんなと同じような道を行く方が安心だと思っている人が大多数です。

だから、起業するとか独立だなんて、無謀だと言われてしまうし
ましてや「ネットで稼ぐなんて何を夢みたいなこと言ってるんだ」と
言われることだってめずらしくないです。

でも、私も弟もある意味ラッキーでした。

母が若くして死んでしまい、
それ自体が周りと違う人生になってしまいましたからね。

一方で、選択の自由があったし、父は私たちをコントロールすることは
絶対にしなかったからです。

ある意味、自立心が養われました。

そして、逆に一家の影のリーダーだった母がいなくなってしまい
本来ならば、その統率力を失ってバラバラになるところが
彼女の死によって、心は固く絆は強く結ばれていたと確信しています。

実際に、私がアメリカに嫁いだり、見た目にはバラバラな
残された私たちでしたが、母が早くに旅立ったことが後も
私たちの人生を常に支えていました。

高校生のときは、少しグレた弟も、一度は結婚し
子供も生まれました。

離婚してしまいましたが、今もきちんと養育費を支払っています。

あのとき、まだきちんと就職していなかった弟は
母を安心させられないまま、逝かせてしまったことを
実はとても悔いていたようです。

その後、ずっと同じ仕事を続けていて
今は、海外へ行ってしまった姉が当てにならないので(苦笑
両親が建てた実家を守ってくれています。

私は「平凡が一番大変なのよ」と言う母の言葉通り
結婚し、子供ももうけて、いろいろ大変なことがありますが

こうして日本ではないですが家族を持って
ありがたいことに幸せに暮らせています。

母が死んでしまうまでは、思いやりのない子だと
母によく言われていました。

「母親が娘にそういうこと言う?」と冗談でよく言ってましたが
本当にそうだったと思います。

母は死をもってそれを私に教えてくれ
人との関わりの大切さ、相手を思いやることが
私の人生を豊かにしてくれることを彼女の死後知ったのです。

生きて行く上で、大切なことです。

母が生きている間は、仕事にのめり込み過ぎて毎日、最終電車でした。
朝は全然起きられず、毎朝母に起こしてもらっていました。

そんな私も今は、毎朝5時半に自分で起きています。

独身の頃は、超夜更かし人間で、夜中の2時くらいまではまず起きて
朝は、8時過ぎに起きて仕事に行くような人間でしたが
人って、変わるものですね。

そんな小さなことから、母とのやりとりを思い出します。

25年も経つと、いろいろな記憶が少しずつ薄れてしまうのですが
それでも、彼女の娘で本当に良かったと思うのです。

今は、あの世で父と祖母と楽しくやっていると思いますが
こちらは全く心配なくても、たまには孫(私の息子)のことは
気にかけて見に来て欲しいものです。

私も弟も元気です。
私はもうすぐ貴女が病気になった年齢になろうとしています。

そして、生きている間には恥ずかしくて言えませんでしたが
私たちを産んでくれてありがとう。

貴女が生きた証は、こうして私たちが生きることで輝いています。

悔いのないように、貴女の分まで生きていくことを
これからもやっていきますね。

ではまた会える日を楽しみに。

永遠に50歳の母上様へ

Nanaより